ヒポクラテスの誓い

診療部長 朱雀 五十四

ヒポクラテスという人物の名前をご存知の方は少ないかもしれません。しかし、日本の医師ならおそらく全員がその名前を知っています。なぜなら日本の医学教育の中で彼のことを教えられるからです。彼は紀元前5世紀のギリシャの医者であり、「医学の父」として崇められています。約7ヶ条ほどからなる誓いは、その内容が現在には合わないものもありますが、例えば金銭的目的だけで医療をしたり医学を教えたりしないこと、患者の利益になる医療を行うこと、患者を差別しないこと、そして患者の秘密を守ることなどは現在にも通じるものです。そのヒポクラテスの胸像と誓いの言葉が書かれたものが、当院の医局の前の廊下にあります。是非、一度見ておいて下さい。
しかし、日本にはこのような「誓い」が見当たりません。なぜでしょうか? 私は近代的な西洋医学が日本に導入されるまで日本の医療において、あえて「誓いの言葉」は必要なかったのでは、と思います。それは日本では古代から医療が「仏教の倫理性」によって裏打ちされていたと思われるからです。そもそも仏教は日本に医療(薬師)として伝来しました。奈良薬師寺の仏足歌には「くすりしは つねのもあれど まらひとの いまのくすりし たふとかりけり めだしかりけり」(漢字をひらがなに変更)とあり、仏教に「新しい神」としての尊い薬師(くすし)の役割を期待していたと想像できます。そして専ら祈療が中心の治療ですが、奈良時代には天皇を看病する看病禅師という職種が設けられ、平安時代には宮中にも置かれました。また養老元年(717年)の詔では僧侶が湯薬を用いて病人を治療することを認めており、のちには「くすし坊主」「くすし僧」などとして登場してきます。一方、国家としても医師の養成を典薬寮などで行っていますが、数も少なくまた治療の対象は主に貴族階級や役人などに限られていました。また医師は病穢と日常的に関わることから必ずしも尊敬されていたわけではなく、その地位は職人、手工業者扱いであり、例えば『東北院職人歌合せ』では陰陽師と対の組み合わせになっています。また『栄華物語』では中宮が病気の折に「醫師に見すばかりにては、生きてかひあるべきにあらず」と医師に肌をみせるぐらいなら死んだほうが良い、と診察を拒否している場面もあります。

一方、一般庶民の間では病気になった使用人やその死体は道端や野原に遺棄するのが普通であり、『餓鬼草紙』にはその様子が視覚的に詳細に描かれています。当時の人が死体や重病人を野に捨て、遠ざけたのは「穢れ」を恐れたからです。死には死穢が伴うとされ、死体には凶癘魂(きょうれいこん)が付着するものとして忌み嫌われていました。そのため重病人や死体は遠ざけられ、遺棄されていたのです。当時の法律ともいえる『延喜式』によれば穢忌の期間は人間の死の場合は30日間、動物の死の場合は5日間と決められており、その間は内裏への参入は禁止とされていました。このように人々は死穢を極度に恐れていたのです。しかし死穢を恐れない人たちが出現してきました。それは叡尊や忍性ら律宗系の僧たちです。彼らは戒律を厳格に守ることにより、戒律が穢れから身を守ってくれると考えていたのです。そして彼らのような死穢を恐れない鎌倉新仏教の僧侶たちによって、仏教式の葬式や重病人・極貧困層の人々の看護・救済活動が行われたのです。
このように日本では僧侶が医療と深く関わっており、そのため医療の倫理性が保たれていたのでは、と思われます。しかしその後「科学と技術」を中心とした近代的な西洋医学が導入され、また僧侶が病人や生きた人間ではなく、もっぱら死者や仏壇の方にばかり顔を向けるようになった今、これまでの仏教を基盤とした倫理性は喪失しました。そして西洋的な「誓い」が必要となり、「ヒポクラテスの誓い」が医学教育に導入されたのでしょう。しかし残念ながら今やこの「誓い」も時代に合わなくなっています。
犬山病院の旧館の外壁や旧病棟、医局、食堂の扉などには今もウィリアム・オスラーの「The Practice of medicine is……, a calling, not a business,….」「医学の実践は・・・・ビジネスではなく、天職である・・・」という文章が残っています。さらに旧棟の中庭には病院創立20周年を記念して建てられた石碑があり、そこには「人を愛することは 創立の心なり」と記されています。忘れがちなこれら名誉院長の想いの中に新たな「誓い」のヒントがあるのかもしれません。

(白帝ニュース平成30年7月)


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